手入れ
警察のガサ入れ?ではなく「お手入れ」のお話。
お手入れ文化からみた(雑談としての)未来の(豊かな)暮らしを紐解きたいと思っています。
どうでしょうか?近頃の東京。なんだか僕は面白くありません。出来上がった箱物には個性がなく、運営もサービスも均一的。全てがアルバイトスタッフで賄われている様な人情味のなさ。これは人がロボット(AI)に置き変わった近未来を見ている様な気分です。消費者は、お店に入ると、全てベルトコンベアーの上に乗ってお会計カウンターまでただただ運ばれてゆく感じ。便利な世界です。都会へ行くほど、オートマチック。お手入れ不要な暮らしは至る所で広がっています。
これはあくまでの僕の持論です。
何もかもオートマチックにできてしまった都会は、お手入れいらずで暮らせます。例えば夕飯ひとつとってもウーバーイーツで手軽に手に入り、食べた後は器をポイ。お皿を洗う必要もありません。都会の暮らしとは、なんでもお金で済む事。ゴミが出る事。手間がかからない事。時間が生まれる事。
これからも人口が集中する都市部は、マスマーケットとしてビジネスのターゲットになるので、画一で均一なサービスが提供され続けるでしょう。
昔から比べると十分に行き届いたサービスが安価に得られる。そういう意味でやはり都会は便利です。様々なサービスを受けることで時間が生まれ、その時間を自由に自分のために浪費できるのも又都会の暮らしです。 暇な時間を使って映画を観たり音楽を聴いたり、youtube,SNSなどで、世界の人々の(偏った)生活を観たり。
そして物を持たない暮らし。断捨離する事は都会で暮らす時の必須項目かもしれません。
身軽で、シンプルで無機質な空間で、自由に引っ越せる。これは理想的な暮らしです。
さて、「お手入れ」。
コーヒーを自分でドリップする人は先ずケトルでお湯を沸かして、豆をミルで粉砕し、ドリッパーにフィルターをセットしてドリップ。飲み終われば、器とドリッパーを洗って乾かして仕舞う。 時にはコーヒー豆を粉砕した後に出るカスの残るミルをお掃除する。たかだかコーヒーを飲むために、マグカップ、ケトル、コーヒーミル、湯沸かし機が必要になってくる。コーヒーをドリップする暮らしは、非常に労力と時間と手間が要ります。(これは負の面か?)
これらは「お手入れ」する暮らしです。 なぜこれだけの負の面があるのに手間をかけるのか? それはそれらを凌駕するほどのコーヒーの香り、美味しさ、そして一連の所作がコーヒー文化としてあるからです。そう文化なんですね。
コンビニや自動販売機で簡単にコーヒーが買える(便利な)暮らしを都会の暮らし(住んでる場所が都会というわけではない)。
自分で(手間暇かけて)ドリップしてコーヒーを飲む暮らしを田舎の暮らし(これも住んでる場所が田舎というわけではない)。
と定義すれば、田舎暮らしには常に「お手入れ」が付き纏う。つまり、何をやるにしても、手間がかかるために時間が奪われてしまいます。
都会の暮らしは味気ないか?田舎の暮らしは味があるか?。ここがお手入れから見た素敵な暮らしかどうかです。
未来の暮らしの話。というかこの話が、なにか未来の生活のヒントになればと思って僕はこんな比較をして自問自答しています。
結局、この先の予測不能な未来を考える上で、どうすると多幸感というのか、より多くの幸せを感じながら生きていけるのか?を考えるために物事を二極化して比較しています。
未来において、都会の暮らしは益々便利になる。ただし金が要る。これは明確です。では金があれば都会の暮らしで良いではないか。という帰結に向かいそうですが、田舎暮らし(住んでるところが田舎というわけではない)には、どんな(便利な)未来が来ても到底勝てない魅力があるから困った物なのです。
その勝てない要素とはなんぞや? が最大の問いになるわけですが、それは前述したとおり文化なのではないだろうか?という所に行き着きます。
すでに葉山・逗子・軽井沢といった魅力的な場所に都会から移り住んだ方がかなりいます。そこには文化があります。そして彼らは多分、この「お手入れ」について非常に価値を置いていると思います。どんどん新しい物を取り入れて生活を(一見すると)豊かにすると思われる事に注力することをやめ、本当に良い物を探し、それを長く使う為にお手入れを欠かさない。そんな暮らしです。どんどん消費(浪費)するのではなく、価値ある物をゆっくりと手に入れて、それを長い時間かけてお手入れしながら使う。
マスマーケット(大量消費市場)に物を提供するビジネスマンにとってはこれは困った消費者です。安価な粗悪品・量産品・消耗品には目もくれず、高価ではあるが堅牢な物を探して手に入れ、お手入れするから極端に消耗しない。長く使う事を美徳と考えるから浪費しない。そんな「お手入れしながら」暮らす暮らし。経済の面からみると回転率の悪いお客様。笛ふけど踊らないお客様。そんな賢いお客様。
少し路地裏文化にも似ています。駅ビル文化と路地裏文化。これも似た様な対比です。
僕はこの先、益々進化するスピードが上がるであろう時代にあって、都会が魅力的な街になってゆく気がしないのです。そこは取り残された場所になってゆく予感しかありません。大量消費市場としてある意味、馬鹿にされてる様な製品に埋もれ、便利さや安さ以外に魅力のないたくさんの工業製品に埋もれている場所。そして人口が減少する日本で、マスマーケットも衰退してゆく。かつて都市部にあった文化はもはや霧散してしまいエセ文化が横行する。過去においてメインストリームにあったアヴァンギャルドな文化は副産物としてサブカルチャーにまで発展した。ところがもはや現代の都市にある文化は、裏も面もなく、量産品であり、劣化コピー品であり、自虐であり、キッチュでしか無くなってしまった。
そんな未来を考えると、住む場所も本当の田舎エリアで、手入れをする暮らしに生活をシフトして暮らすことの方がはるかに豊かな暮らしが営めるんじゃないか?そんな気が近頃しています。田舎エリアの難しさというか障壁は、その場所に昔からある自治体や風習。それらとうまく折り合いをつけなければ暮らせないということです。そういう意味では、一から作る人工的な田舎町がもっとも理想で、かつてその様にしてできた軽井沢町や逗子は、その代表とも言えます。
東京にほどよく遠く。ほどよくアクセスできて、まだこれからという自然豊かな町。
緑や海、川、そして小鳥や虫がいる場所。そこに文化が芽生え、路地裏に旨い珈琲屋や古本屋、レコード屋、古着屋などができ様物なら、そんな場所に家移りして後半の人生を楽しみたいと最近強く考えています。
海沿いならば、神奈川の海岸線。大磯から鎌倉。逗子から三浦半島までのエリア。そして
山沿いならば、山中湖のあたり。そんなエリアが僕にとって魅力的に感じられます。
お手入れと文化のある暮らし。
土っぽい昭和の路地裏感がある暮らし。美味しい野菜、季節の果物がある暮らし。朝日や夕日の美しい景色がある暮らし。自然の音に溢れている暮らし。
静けさと適度な喧騒が交わった暮らし。そんな場所と暮らしを求めてこれからも色々探したり考えたりしたいと思います。
ヴィンテージ
インテリアや不動産、マンションの世界で「ヴィンテージ」という捉え方があります。
インテリアの家具や椅子の場合、それはヴィンテージ家具。と呼ばれたり、マンションも同様にヴィンテージマンション。と呼ばれたり。
さて、車やオートバイが好きな人の場合も同じくヴォンテージカーやヴィンテージモーターサイクルを探して手に入れます。
車の場合、ローバーミニ、フォルクスワーゲンビートル、フィアット500といった車たちやBMW R100,BMW R80、トライアンフ ボンネビルといったオートバイたち。こう言った車やオートバイがもし現代でも新品で売られていたら、あなたはどうしますか?
車がEV化する中、カリフォルニアで少しブームのようになっているのがヴィンテージカーの心臓部(エンジン内燃機関)を摘出してEVのモーターを移植して作り、外観はヴィンテージカーのまま、内面は最新のテクノロジーでAPPLEとも同期できる仕組みを取り込んだりしています。
車やオートバイを旧車同様の状態で、一台だけ新品で作る場合、そのコストは流通している価格の数十倍になります。
しかし、当時のままの姿、もしくはそれに近いノスタルジックさが漂う物があるとすれば欲しいと思いませんか?
TSUKU-HAEは家具をデザインしたり製作したりしていますが、家具においてこの ” ノスタルジックさが漂う物 ” を新品で作ることは可能なのです。
家具の素材は100年前と現在とではほぼ変わっていません。天然素材である木については今後100年以上先においても変わりありません。いずれ社会はさらに進化して家も家具も3D プリンターで作る時代が来ることでしょう。その時に木や天然素材で出来たものは、どのような扱いになるのでしょうか?
さて、最初に書いたヴィンテージマンション。東京都内にも多くのヴィンテージマンションは存在します。
数に限りがある物件だけに、これを購入された方は非常にツイています。そしてその内装についても建物同様に拘りたいはずです。
その時に、内装材については当時のものを探してリノベーションする事が可能です。そして家具。
ここでヴィンテージ家具を買うか。作るか。という選択肢ができます。ローバーミニ、フォルクスワーゲンビートルの様なノスタルジックな家具を買って使うのは非常に素敵です。そして照明やオーディオはどうするか?例えばルイス ポールセンの照明にB&Oのオーディオはどうでしょうか?これはヴィンテージマンションの空間にピッタリと合ってくると思いませんか?
ここで一考です。
ルイス ポールセンの照明にB&Oのオーディオ。この2つのメーカーはデンマークのメーカーです。そして同じ製品を作り続けているだけでなく、新しい”新作”が出たとしても、それはヴィンテージマンションの空間にピッタリと合うようなデザインで出来ています。
新品なのにノスタルジックさが漂う物。彼らが作っている製品はそういう製品なのです。
彼らは時代に埋もれないものを作っている為、その製品は時代の風雨に晒されてもびくともしません。
カリフォルニアスタイル、ブルックリンスタイル、ブリティッシュスタイル、プロバンススタイル、サンタフェスタイル、バリスタイル。
日本には海外からいろいろなスタイルが去来しました。そして一通り流行が高まり、頂点までいくと潮が引く様に去って行きました。
そんな中で北欧ヴィンテージスタイルと呼ばれるインテリアのスタイルは日本において静かにずっと続いています。そして日本とスカンジナビアンスタイルを合わせた造語、JAPANDIという言葉も生まれました。
TSUKU-HAEは、この”新品で作る事ができるヴィンテージ感”をコアに持ちながらモノを作っています。劇的なエージングなどを施す事なく、新品で出来た瞬間、すでにヴィンテージ感が漂っている。そんな製品作りです。
あなたが住む空間が、例えばアントニン レーモンドがデザインした様な、前川國男がデザインした様な空間、アール・デコやル・コルビュジェに影響を受けた様な空間だった場合。きっとその空間にルイス ポールセンの照明やB&Oのオーディオが似合う様に、TSUKU-HAEがデザイン・製作する家具もお部屋に馴染む事だと思います。
新品にヴィンテージ感。これは深淵なる永遠のテーマです。
お店作り・空間作り
普段あまり空間建築について書くことはないのですがたまにはそんなお話も。
僕は25年近く、この仕事に携わってきました。しかも東京および東京近郊の第一線級の現場ばかりで。
常に激戦区であるこのエリアは、日々しのぎを削って新しさ、面白さ、ユニークさを競っています。
2023年8月現在「お店を作るのに予算がない。」という事をよく耳にします。
2019年に3,000万円で、できていたお店と同じものを2023年に作ろうと思えばその予算は4,000万円にもなる。とも聞きます。
物価も光熱費もガソリンも、生活に必要なものは何もかも値上がりしました。
昨日僕はガソリンスタンドで満タンに(ハイオク)ガソリンを入れると193円/Lでした。恐ろしい時代です。
予算は厳しい。だけど、予算の範囲内でお店を作る。これはもっともな事です。
しかし、消費者目線で見た場合、例えばそこがパン屋だとすれば290円だった食パンが360円になり、美味しかったあのカレーパン360円が440円になった今、
ふと店内を冷静な目で眺める。そこが定石通りのなんでもない空間様式であれば、「美味しいカレーパンだとしても、これに440円の値があるのか?」と消費者は考えてしまいます。そして買う瞬間、「これって高くないか?」と誰もが感じる事でしょう。
しかし440円のカレーパンが600円でも欲しくなる設のお店であれば、440円は安く(手頃に)見えてくるから不思議です。
スターバックスのコーヒーの場合、コーヒーの味だけを価格と比較すると割高なコーヒーであることがわかります。
これがわからない人は味音痴です。スターバックスにはそのコーヒーを内容以上に高価に見せる仕掛けがあり、それによって高単価が維持されています。
しかもお金を払う消費者側も満足しリピートしています。その高価に見せる演出の一つは内装、インテリアにあります。
空間や家具のデザインは実はかなり重要で、デザインの使い方によって、お店の価値は実際の2倍以上に跳ね上がります。
製品を手に取った消費者がお店をぐるっと眺めたり、かかっている音楽に耳を傾けた時、お店の値踏みが始まります。そこにリッチな空気が流れる事で
扱い品は非常に高価なモノに映り始めます。リッチさ。とはジュエリーのようなキラキラ、ハイブランドのようなギラギラでなく、品性を含む、余裕の空間という事です。そして店内に情報量が少なければさらにリッチ感は派生してきます。
そんな空間に置かれたカレーパンは440円か、それ以上の佇まいあるモノとして認識されます。
ここからは僕の持論です。
結論から言えば、お金をかけない空間演出の最たるものはミニマルでシンプルなものです。
その内、シンプルさについては、どうシンプルにするかが最大テーマです。
もっと言えばシンプルとは物や情報量が少ない空間。つまりは何もない場所(空間)にポツリと商品がある。それが理想です。棚の上に高く積まれている商品より、そこにポツンと一つだけ大切に扱われている商品は高価に見えます。その場合、大切なのは棚の設です。
商品が少ない分、空間が多くなり、棚が消費者の目に映ります。手工業でできた器などの見せ方、売り方はこの典型だと思います。その際は棚に無垢の木など
質感が要求されるものを使用しないと器の価値が下がります。ユニクロの棚はギッチリと商品が高積みされていて棚は見えないので最低限の設で済みます。
ユニクロの商品棚の良い点はメラミン(もしくはポリ合板)の白を使っている点です。ここに木目調や大理石調を持ってくればシンプルさは生じません。
無機質な素材で無機質は白。そこがユニクロをユニクロっぽく等身大で見せる仕掛けとなっています。ユニクロはライフスタイルを等身大の暮らし。
と銘打って定義しているので日常着として、商品構成をおこなっています。逆に言えば、ユニクロにはこだわったおしゃれ着は存在しないのです。
同じくコーヒーが美味しいフグレンコーヒー (オスロから東京へ)のカウンターも黒のメラミン(もしくはポリ合板)でできています。
ユニクロとの違いは周り縁が無垢のチーク材で出来ているところ。これによってスカンジナビアンデザイン(北欧様式)が持つ雰囲気が演出されています。
フグレンコーヒー のコーヒーは¥500/一杯です。 そのコーヒーはかなり美味しい。そしてインテリア、音楽は抜群なので価格に対して割高感が全くありません。
スカンジナビアンデザインを使う場合の良さと難しさははっきりとしています。それは、そこを訪れる消費者の知識や経験によって左右される点です。
あえて言葉を選ばずに言わせてもらえるのであれば、モダンアートがわからない消費者にとって北欧様式は響きません。マネやゴッホ、ドガやシスレーのような印象派に感銘を受ける日本人はかなり多い。しかしカンディンスキーやモンドリアン、ジャクソンポロックを至上の価値。と理解する日本人はそれほどいません。マーク ロスコーなどについては全く分からない。パウル クレーについては少し興味がある。そこが日本のアートに関する平均値なのですが、モダンさの分野、例えばジャズ、インテリア、アートに精通する人にとっては、もはや建築はモダン以外考えられなくなります。その先にバウハウス様式やスカンジナビアン様式が横たわっているのです。この”間”という何もない空間について感じる心があるかないか。実はここが最も難解なところなのです。
この”間”というのは数学的に出来ているのですが目で見てその数値や比率を即時に理解することはできません。経験を積んだり、学んだ事によって、ある意味感覚として認識できるだけの素養が備わっているかどうか。になってくるのです。
わかりやすい例で言えば京都の龍安寺。
枯山水のお庭が有名ですがここに置かれた飛び石の配置。そこにある間、そしてお庭を構成する奥行きと幅。これらは数学的に緻密に設計されています。
龍安寺の庭の縦横比が黄金比を用いて作っている事を知る現代日本人は数%しかいないでしょう。庭については一家言(うるさい文化)を持つ英国のエリザベス女王がここを訪れたときに、西洋と東洋の差はあれどバランスの美しさを表現するのに同じスペック(黄金比)を両者が用いてガーデンを作り表現している事に非常に感銘を受けていました。
印象派どまりの感性に対して、モダン建築はなにか物足りなさ。を感じさせます。
そこの違いは様々ありますが、最もわかりやすいのは”間”と”色”です。印象派的な建築と空間はギッチリと物が詰まり色彩が豊富です。
モダンには大きな間があり、色数が極めて少ないという特徴があります。空間にある大きな”間”と色が(情報が)少ない事の相乗効果によって
存在するモノの存在感を際立たせます。
内装費用の無駄(過剰装飾部分)を削った分は、どこかに集中的に費用をかける事ができます。それも効果的です。
予算が潤沢にある現場は稀ですが、余剰のお金は主に過剰な装飾に周りがちになります。過剰な演出によって提供するものを高価に魅せる。
その場合余剰予算はまずは照明、金具類に向かいます。そうすると照明は大きく、派手なものに向かい、金具類はピカピカに光ったものへとなりがちです。
そうすると少しづつ、品位から外れてゆきます。マリーアントワネットが持つ価値観は、ケーキ以上の甘いスウィーツを日常的に、手ごろに食する事ができる現代社会においては、逆に忌み嫌われる傾向にあります。現代人はマリーアントワネットにこういうでしょう。
「ケーキ?ダイエット中にそんなの食べられるわけがないじゃない?」
簡素であったり質素であったり、そんな素なものに価値を置く現代人にとって、マリーアントワネットの加飾は下品で全く意味がないものになりました。
ミニマイズされた意匠で、高価な素材。
いづれにしてもコロナ前と同様の店作りでは2023年以降は通用しない事態が生じると思います。これは予測ではなく、そのようになります。
この物価上昇はまだまだ続きます。チープなお店にある高額(だと消費者が感じる)値上がり品は、手にとってくれたとしても、誰も買ってはくれなくなります。チープなお店の設が最も反映された商品。たとえばタイムセールで20〜30% offの札がついたモノ。(原価が安く仕入れられた)今日の一押し品。それらはよく売れるでしょう。しかし、最も売れて欲しいお店のレギュラーの商品はなかなか定価で売れなくなるでしょう。
内装の予算配分をするにあたって、どこに全力投球をし、どこを限りなく減らすのかは最大の肝です。
ではお客様が滞在するお店、カフェ、飲食店において最も予算をかける場所はどこでしょう。
それは看板。そして椅子、テーブル、レセプションカウンターの順です。
天井が良かったり、床が良かったり。壁が良かったり。什器がよかったり。それも大切な要素です。
しかしお客さんが直接関わる場所は、椅子に腰掛け、テーブルで食事をし。最後にお会計を払う。この3カ所なのです。
それぞれでお客様が快適に過ごすことができるか。ここは大きな潮目です。
料理ができるのが早い。会計で待たされない。それらも副次的な要素として重要です。
食事や飲み物が美味しい。それらは絶対条件です。
しかし、サービスや味が良くてもお客さんが少ないお店の内装を見ると、空間に非常に多くの要素を詰め込みすぎている場合が実に多いのです。
では良いお店とは
モノ(商品)がよく(高価に)見えるように、余白の多い空間で運営し、
文化的で快適な椅子に腰掛け、サイズ感、質感、素材感、ディテールに拘ったテーブルで食事をとり、
精緻にデザインされた広めの余裕あるレセプションカウンターで、満足な気持ちに浸りながら会計を済ませる。
これらは単価が高い商品を扱う場合の鉄則です。そして消費者には少しだけあらたまった気持ちが喚起され、お金を払って良かった。
と思える気持ちになり、さらに少しの緊張感までも与えることができれば、その特別感は成功したと言えます。
この少しの緊張感は、働くスタッフの所作や言葉遣い、服装からも与えることは可能です。緊張感とは非日常感と密接に結びつきます。
日頃味わえない感覚を味わった事で、お客様はお金を払った事もまるで喜びのように感じていただけます。
ただし、スタッフの衣装はあらたまった正装ではいけません。河口湖にある旧態依然とした旅館の前に暇そうに立っている年老いたスタッフの
ネクタイの結び目はおにぎりのようで、髪型はマイケルコルレオーネのようなオイリーヘアーです。これではいけません。
逆に言えば安さが売りのお店であれば、
粗末だけど堅牢な椅子。清潔だけどなんでもないテーブル。小さなカウンター。これが理想的です。
それら庶民的要素は、消費者にどこかホッとする感覚までも与えることができればミッション完了です。
スタッフの気さくな態度と心配りがあればさらにお客様の心が和むでしょう。
お客様とお店が近い距離にある。そこに生じる親近感。そんなものが大切です。
そうする関係ができれば日常使いのお店として多くのお客さんがリピートしてくださるはずです。
音楽も重要な空間要素になります。スピーカーをどのようにするか。音の鳴りをどうするか?
ここまで空間意匠と共に考える事ができると素晴らしいと思います。
では商品、空間、音、家具、インテリアデザイン、スタッフ。
それらの要素がバランス良く、そして他にはないものとして日本に存在するお店の中で最高のお店はどこか?
と問われれば、僕は京都南禅寺にあるブルーボトルコーヒー。と答えます。スキーマの長坂氏がデザインした空間です。
空間はもちろん、家具、什器、そして椅子。(椅子はトーネットチェアを使っています)、音楽(スピーカーはtaguchiを使用。)そしてそこにある”間”
どれをとっても最高です。京都に滞在中の三日間で、二回ほど、ここを訪れましたが、これ以上出来た空間はないな。と感銘をうけました。
ブルーボトルコーヒーはブルックリンや清澄白河、他にも様々巡りましたが、この京都南禅寺のお店は別格です。
モダンさは一見、引き算から始まるように見えますが、非常に多くの要素がそこに入っています。この三次元的もしくは四次元的な要素は目に見えません。
その為、解読できない場合が多いのです。モダンアートの解読が難しいように。
モダンの要素が可視化されないために、類似のものをつくるのが非常に難しいのもその特徴です。
そしてそこに漂う要素を理解せずに、見様見真似で作ったニセ空間のブサイクさといったらありません。
モダンジャズ、モダンアート、モダンデザイン。ここには全て共通した要素があります。
その要素についてはまたゆっくりとお話しできればと思います。