1930年頃のトーネットの事情について
1922-1939の間、トーネット社はムンドス社( JJ コーンとムンドス他曲木会社全てを併合した会社)と合併していてTHONET-MUNDUSと言う社名で本社をスイスに置いていました。実質の経営者はトーネット家ではなくムンドスの支配人レオポルト ピルッツェル(ポーランド系ユダヤ人)。ビジネスセンスに長けたレオポルトはドイツ バウハウスと提携し バウハウス マスターであるマルセル ブロイヤーやミース ファン デル ローエらによって曲がった管状の鋼でできたデザインの椅子(カンチレバー)を依頼され生産もしていました。またウィーンを拠点にしたオットー ワーグナーやヨゼフ フランクなどのデザイナーにもデザインを依頼したりと曲木椅子の新たなる道を模索していました。
当時、バックハウゼンで生地の意匠デザインなども手がけていた建築家でもありデザイナーでもあるジョセフ ホフマンとはJJ コーン時代に椅子のデザインを依頼した経緯もあり、再びの依頼でした。又この頃、ホフマンはフランクと非常に親しい関係にあり、NO.811は両者の共作である。とも言われています。
3年後の1933年にユダヤ人であるヨゼフ フランクはナチス政権から逃げ出しスウェーデンへ永住。
チェコ共和国で生まれたホフマンは、その後85歳までウィーンで暮らし、最期はウィーン中央墓地に埋葬されました。
以下は余談です。
2018年3月にウィーン中央墓地にあるホフマンの墓を訪れました。その墓標は大変モダンなデザインでできているため、生前に自身でデザインしたものではないかと思いました。墓標のデザインとNO.811の意匠を見比べるとどちらも非常にシンプルでミニマムにできていて、ホフマンの人となりが造形から伝わりました。
ウィーン中央墓地にはTHONET FAMILYの墓地もあります。両者の墓地は非常に近い場所にあるため、訪れる際はどちらも見ることができます。
「アートのトータル・ワークスと呼ばれる建築とインテリアの要素の統一的統合の理想」
ジョセフ ホフマンについて
1892年、ホフマンは美術学院に応募するためウィーンに移り、そこで生涯を過ごしました。
彼は1895年にセブナー・クラブ(セブン・オブ・クラブ)を設立。1897年にVereinigung bildenderKünstlerÖsterreichs(ウィーン分離派)を創立。ここでメンバー達は、現在の建築と芸術の動向について日夜意見を交わしていました。ホフマンは生涯「アートのトータル・ワークスと呼ばれる建築とインテリアの要素の統一的統合の理想」を追求し始めました。その結果ウィーン・ワークショップは、1903年に一般市民、デザイナー、職人との共同体として設立されました。ホフマンの目標は、職人の役割を高め、芸術的なインスピレーションに十分な価値を与え、装飾芸術が美術と同じ価値を与えられることを望んでいました。