H I S T O R Y
旧トーネット ビストリッツェ工場
T H O N E T の創業者ミヒャエル トーネットが1861年に旧オーストリア帝国に造った、世界最大にして最古の曲木工場(旧トーネット ビストリッツェ工場)で今日も作られる
オリジナル ベントウッド チェア。 T S U K U - H A E で取扱うベントウッド チェアはそこで製作されています。
創業時のビステリッツエ工場
「 アウグスト トーネットは新作椅子が完成すると、この工場の上に登ってそこから椅子を落とした。それによってもし椅子が壊れたら『そん時は大目玉さ、そこで俺たちは工場の上から落としても壊れない様に椅子の弱点を改良していったのさ』
1873年 T H O N E T 社のポスターカタログ
右上:ビストリッツェ トーネット工場 (現チェコ共和国)
左上:コリッチャヌイ トーネット工場 (焼失)
メダルはロンドン万博、パリ万博他各国で受賞した際の受賞メダル。
※ No.18は1876年にビストリッツェ工場で生産が開始され発売されました。
そのため1873年に発行されたポスターカタログには記載がありません。
T h e E r a i n W h i c h M . T H O N E T L i v e s ( ミヒャエル生前の時代 )
ミヒャエル トーネットは 1819年、わずか23歳の時に旧プロセイン帝国(現ドイツ)で工房を興し創業しました。
しかし1840年にドイツで特許申請するも認められず、翌年フランス、イギリス、ベルギーで初めて特許承認を得ることができました。
トーネットに転機が訪れたのはオーストリア帝国、メッテルニッセ侯の目に止まったことからです。彼は旧オーストリア帝国のウィーンに招聘され、そこで工房を持ち、曲木家具の特許を得て事業が始まります。操業が軌道にのるとトーネットは5人の息子たちをビジネスに加えました。そして1853年に社名をトーネット兄弟社と改め再スタートしました。1856年、60歳になったトーネットは念願のオーストリアの市民権を取得し晴れてオーストリア市民となります。1871年3月に74歳で世を去ったミヒャエルですが、生前彼が全精力を注ぎ込み1861年の完成と共に操業を開始した現チェコ共和国、ビストリッツェにあるトーネット工場は彼にとって生涯の研究と開発、そして生産を行えるトーネット グループ最大のラボラトリー兼プラントとなりました。彼は5人の息子の内三男のアウグストを伴ってウィーンからそこに移住し、晩年までを過ごしました。ブナの木が茂る森に囲まれたこのビストリッツェという場所は、戦後オーストリア帝国の崩壊によってチェコ共和国となりましたが、ビストリッツェ市のミヒャエル トーネット通りには、今も息子アウグストとヤコブが作ったトーネットの館(旧ヴィラ トーネット、 現TON a.s. SHOWROOM )が現存し、弛まぬ家具製作を今も昔同様に地元市民と共に行っています。
T H E V I L L A T H O N E T ( 現 T O N a . s . ショールーム) ビストリッツェ チェコ共和国 撮影:2018年3月
A f t e r M . T H O N E T D e a t h ( ミヒャエルの死後 )
ミヒャエルの死後、三男のアウグスト トーネットが実質の家族経営であったトーネット兄弟社の中心となりトーネット兄弟社は現在のチェコ共和国を核に、帝国を拡大してゆきます。
彼はまだミヒャエルが存命だった1869年からこのビストリッツェ工場の支配人となり、ビストリッツェ市の市民に愛され、この地における名士となります。
社業と兼務で1873年以来10年の間、同市の市長としても勤めました。又その後を弟ヤコブ トーネットが継ぎ1887〜1893年の長きにわたり、同じく市長を努めます。
1886年、アウグスト トーネットはジョセフ トーネット(四男)に実質のトーネット兄弟社の経営を委ねますが、翌年ジョセフは死去。 次いで末っ子のヤコブ トーネット(五男)が、トーネット兄弟社の代表として、又ビストリッツェ市の市長としてトーネット家を牽引します。
アウグスト トーネットは晩年オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より騎士団としてアイアンクラウン(称号)を賜り、栄光と共に1910年3月にこの世を去りました。
(ヤコブ トーネットは1929年に他界)ミヒャエルと五人の息子たちは今もウィーン中央墓地にあるトーネット ファミリーの墓地に埋葬されています。
THONET FAMILY GRAVE ( オーストリア中央墓地 ) 撮影:2018年3月
W W 1 (第一次世界大戦)
アウグスト トーネット他界の後、起こった二度の世界大戦でトーネット兄弟社は四散します。
始まりは1914に勃発し1918年に収束した第一次世界大戦。
戦後、降伏と破壊の結果オーストリア=ハンガリー帝国は消滅。分断された結果、新国家チェコスロバキヤ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、オーストリアが誕生します。
平和協定後の新しい国家はトーネット社の工場をも分断しました。
困窮したトーネット兄弟社は1922年にムンドス社と合併し社名もトーネット=ムンドス社となりスイス チューリッヒに本社を移転しました。
ムンドス社の代表はポーランド系ユダヤ人のレオポルド・ピルッツェル。ムンドス社はJ&Jコーン社を含む16の曲木家具製作会社を所有していました。
その後、徐々にトーネット家は蚊帳の外に置かれ、実質的にはユダヤ人のレオポルド・ピルッツェルによってトーネット=ムンドス社は経営されてゆきました。
この間もアウグスト トーネットの息子カールによってビストリッツェ トーネット工場はトーネット=ムンドス社の為に大きな利益を齎せます。
そして第二次世界大戦が起こります。
W W 2 ( 第二次世界大戦 )
トーネット=ムンドス社の全権を掌握したピルッツェルですが、ユダヤ人である彼はドイツ、ナチズムの台頭を恐れ、ナチスから逃げる為に保有するトーネットの株式と引き換えに、トーネットブランドのアメリカにおける製造販売権を貰い受け、アメリカへ移住します。それによってトーネット兄弟社へ再びトーネットの経営権が戻ってきます。
トーネット一族はオーストリアの市民権を持つとはいえ元々はドイツ人である為にこの戦争によって、ドイツ軍と親密な関係を作りました。
また、ドイツのバウハウスでデザインされた家具の製作を行ったりもしました。かつてオーストリアやチェコ共和国で栄えたトーネット家は、これを機にドイツを中心に経営基盤を整えて行きます。
しかしナチス ドイツに協力することを好ましく思わない各地の労働者たちは、サボタージュでこれに抵抗を始めます。ビストリッツェ トーネット工場もレジスタンスの隠れ家となったために、1937年に一時閉鎖。そのような経緯の中、ドイツのバウハウスも閉校。3代目となったトーネット兄弟社は完全にウィーンを離れてドイツに唯一残るフランケンベルグの工場で再創業します。
(初期の頃のフランケンベルグ工場は他の工場と違い、各地の工場から取り寄せたパーツの組立と壊れた椅子の修復を主に行う工場でした)
しかし、そのフランケンベルグ工場もドイツ軍と戦う連合軍によって壊滅的な打撃を受けます。
A F T E R W W 2 ( 第二次世界大戦後 )
1945年、第二次世界大戦は収束を迎えます。
ドイツに残った何人かのトーネット兄弟は同じドイツ、フランケンベルグの場所に生産工場を作ります。これによって1946年にトーネット兄弟社はドイツに新設され現在のドイツ トーネットの礎となります。また同年、別のトーネット兄弟はオーストリア ウィーンに戻り、そこで別会社ウィーン トーネット兄弟社を復活させます。
また旧オーストリア=ハンガリー帝国(後の東欧諸国)に残されたトーネットの支社やトーネット=ムンドス社の支社、ムンドス社時代の支店や工場群はそれぞれの国に接収されました。これによって旧トーネットの拠点はドイツ、オーストリア、アメリカ、チェコ、ポーランド他に分散しました。
ビストリッツェ トーネット工場も1940年まではトーネット=ムンドス社として存続しましたが、WW2によってチェコスロバキアが消滅。戦時中は国有財産として管理下に置かれ、終戦後復活したチェコスロバキアで国営企業として操業を再開し1953年に社名を改め、TON(Továrna Ohýbaného Nábytku:曲木家具制作工場の略語)となりました。
その後1989年に「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、民主主義国家となった1993年にTONはチェコ共和国の民間企業になりました。
またドイツ トーネットは現在ノルウェーのオスロにあるFlokk ASのスカンジナビア・ビジネス・シーティング・ドイツ最高経営責任者を経営者に迎え、ドイツの投資会社AFINUMから投資を受け、旧名称Gebruder Thonet GmbhからTHONET Gmbhに改めました。またウィーン トーネットはGebruder Thonet Vienna Gmbhの後、VIENER GTV DESIGNと改め今日イタリアにあるPoltrona Frau Italyの傘下となりました。
このように各社とも戦火により四散分断されましたが、旧来の製造方法を守りながら、かたやリデザインを繰り返しながら、また近代的な設備を導入しながら今日も曲木家具の生産を続けています。
著:カール マンク 「トーネット曲木家具」 より
1873年
ミヒャエルの後を継いだアウグスト トーネットはビストリッツェに邸宅を完成させ、
トーネットの集大成とも言えるポスターカタログを発行しました。
そして後に世界中のカフェで使用されるようになったニューモデルTHONET CHAIR no.18を
この時期(1876年に)ビストリッツェで考案し完成させます。
その後、アウグスト トーネットが中心となって企画・開発・生産指揮をとり、ニューモデルが次々に発表され、市民社会が発展する欧州市場を中心に、世界中でトーネットの支持は高まりを見せてゆきました。
この頃、事務用の椅子として彼が考案したアームチェアが1903年に、No.9として発売されます。
このアームチェアはル・コルビュジェがもっとも愛用する椅子となり、後のバウハウスでデザインされるカンチレバーの椅子へと影響を与えて行きます。後世に様々な影響を及ぼしたこの椅子は、現在旧ビストリッツェ工場(現 TON a.s. )においてはNo.30としてアウグスト トーネットのデザインしたオリジナル ディテールで製作されています。